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第85号 良寛さんセミナーU
良寛さんは名主の息子で、将来その仕事を継がなくてはならなかった。ある時、漁師と代官とでもめ事ができ、自分が名主見習いながらも調停役を務めたが、双方の言い分をその都度全部伝えたので、収拾がつかなくなった。そんな自分を見て、とても人様の前に出て仕切るようなことはできないと悟った。

自分を見切るのに、良寛さんはとても早熟だった。18才で僧になるしかないと思い定めたのだから。私たちの高校三年生の年齢では西も東も、自分が何だかも、全くわからない人が圧倒的だろう。
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良寛さん出生の地、出雲崎に建っている良寛堂(右奥の小さな建物)

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良寛さんの好物「白雪羔」 。出雲崎の老舗菓子店大黒屋が和三盆を使い復活させた

良寛さんのすごいところは、貧しさに徹したところだと思う。すぐ思うことは、私たちが、定まった家もなく明日の食事もなかったら、たちまち不安になって、全ての思いは挫折してしまう。「衣食足りて礼節を知る」は、このことを肯定している言葉と思う。しかし良寛さんは、それを18才から70才過ぎまで、貧しさの極地を貫いたことだ。こんな偉大な行跡はない。しかし代わりに、全く自由な何にもとらわれない境地を得られたのだろう。全く私たちには真似のできないことだ。

どうやら良寛さんにとって、貧しさをつきぬけて、住居や食べ物がないという物質的不足の先にある、全てを捨て去った後の何事にもとらわれない自由さ、心身解脱のことを言っているみたいだ。

そんな良寛さんが最後の花を咲かせたのは、七十歳の時だった。貞心尼という三十歳の美貌のお弟子さんができたのだ。二人とも歌人だったので、その恋心の歌が現在も数多く残り、今でも人の心を打っている。また、この貞心尼は良寛さんを最期まで看取り、没後も良寛歌集を編さんしたりした。そのおかげで現代の私たちも良寛さんに触れることができるのだ。



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塩入峠 三十歳の貞心尼が七十歳の良寛さんを訪ね通った峠。当時は難所だった。



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良寛さんの墓 ゆかりのあった木村家菩提寺、隆泉寺に眠る




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母の生まれた佐渡を向いて坐る良寛像



写真提供:遠藤 純氏

11/2/25

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