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第84号 良寛さんセミナーT
本校では、良寛さんのセミナーを2010年12月に行った。私が卒業年度生に毎年行っている、社会に出る「はなむけセミナー」で、卒業後の長い人生の中で、立ち止まったとき思い出して欲しい人物が良寛さんだったからだ。セミナー当日は、30年以上にわたって、良寛さん周辺の風景を撮ってこられた写真家の遠藤純さんに、ご本人の風景写真と良寛さんのことを織り交ぜてお話しいただいた。私も知れば知るほど、良寛さんのすばらしさ、恐ろしさに触れた者なので、良寛さんのエピソードを、遠藤さんに了解をいただいた写真と共に紹介しようと思う。
写真1
<写真1>
後世つくられた良寛さんの像

こんなことを書いたら、「お前はとんでもない奴だ。良寛さんの人生が送れない奴に、そういう話をする資格はない」と言われそうだが、現在誰一人として良寛さんの生活を送れる人はなく、誰一人として良寛さんそのものの本質を書ける人はいないだろうと思う。無数の良寛さんの本も、その著者の捉えた良寛さんだったはずだ。西欧で数多くの聖者たちが、自分はキリストではないのにキリストを語っている。伝道者は伝道者の役割があり、パウロがいなかったら、キリスト教は一地方宗教であったとまで言われている。
良寛さんは、物質的な貧しさを突き抜けて、人間本来の自由さを感得し得た人だった。そして、稀にも、それを詩として、書として表現できた人だった。その意味で天才的なアーティストだったと言える。丁度ゴッホが絵にしか生きられなかったように、良寛さんはその強い人間性で、ああいう生活でしか自分を納得させられなかったのだろう。
まずは良寛さんの外まわりのことを紹介しよう。
1758年、江戸時代後期に越後(新潟県)で生まれたお坊さんで、歌人でもあり書家でもあった。74才で死ぬまで、寺も持たず托鉢だけで生活していた。しかし、風流を表現するのではなく、当時としては全く別格の自己確立や、何物にもとらわれない人間の自由を実践し、表現した人。その詩、歌、数百首により、私たちは今もその生き方を指針とできる(写真1、写真はすべて拡大してご覧ください)。
良寛さんのことをこう言った学生がいた。
「みんなが良寛さんに憧れてこうなってしまったら、世の中どうなってしまうのだろう?」
この答えは明らかで、良寛さんのような清貧に耐えられる人は、何万人に一人もいないだろう。だから心配ない。それほど、貧しいことは恐ろしいことだからだ。今、あなたが明日の食事もなかったら、そしてそれが毎日だったら、その恐怖に耐えられますか。

逆に良寛さんは、世の人のように物欲を発揮できる人でなく、生産性のない自分を恥じていたかもしれない。その証拠に、詩の中で何回も、自分は人の数に入らない人間だと言っている。




写真2
<写真2>良寛さんが使った鉢の子。
この中にお金やお米を入れてもらう

写真3
<写真3>
良寛さんが十数年を過ごした
五合庵

良寛さんの言葉

言葉は、惜しめ、惜しめ、云う

嫌いな言葉

くれる前から、くれよう、くれようと云う
良寛さんはよく子供たちと遊び、特に手まりを好んだ。ご本人はその価値観をどう考えていたのだろう。仕事を一生懸命するのも、お金儲けに熱中するのも人生、私はそれらに同じように、子供たちと手まりをつくのが好きだ、というかもしれない。普通の大人も、その瞬間楽しいのは、金儲けよりもまりつきかもしれない。
良寛さんは幼少の頃から思いつめるタイプだったらしい。「親に反抗すると鰈(かれい)になる」と言われて、海岸に出て、この暗い海の底の鰈 になったら、どんな生活なのだろうとずっと海を眺めていた。また、稲の穂が開くとき音がすると言われて、何時間も田んぼにしゃがみこんでいたといわれている。





写真提供:遠藤 純氏

11/1/25

(写真をクリックして拡大してみてください。

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写真1
<写真4>
良寛さんの書。子どもから凧に何か書いてと言われて書いた

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