さて、前号で仏教が中国に伝わった時代の北魏の仏像(写真1、写真はすべて拡大してご覧ください)の話をした。この北魏に対応して、中国の南には宋という国ができる。いわゆる南宋だ。北魏に追われた貴族が宋に逃れてきて朝廷に仕えるが、その貴族たちに清談というものが流行る。逃れてはきたものの自分の人生のはかなさを痛感して、俗世間の栄達や、豊かさを望まず、清貧に甘んじることが理想と考えたのだ。
日本でいわれる竹林の七賢で、この時代の7人の賢人が俗世を嫌い、竹林に住み、清貧にして、優雅な生活を送った。写真2はそれを実際の貝を模した陶器に描いたもので、横径42cmもある。宮仕えを嫌って流浪の旅に出たり、世俗の人生を嫌って山の中で清貧生活を送った人々なのだ。もちろん、一部の限られた人たちで、写真3はそのうちの三人だが、今では全員の名がわかっていて、阮籍(げんせき)が、その中心人物だった。「清貧にして、優雅」と書いたが、現実には、このような言動は、時の支配者に対しては非常に危険であり、七人の中の一人は後に死刑となってしまった。また、二名は逆に国の首相格の役職に就いたほどだ。
さて、この焼き物は薩摩焼と呼ばれ、幕末から明治にかけて、鹿児島薩摩藩で焼かれたものだ。主に輸出用であり、その超絶技法はヨーロッパの万博で好評を得、外貨を稼ぐのに大いに役立った。写真4の皿の縁飾りの細さと美しさ、写真5の皿の裏のリアリティあふれる表現を見て欲しい。日本よりも、ヨーロッパで有名になった焼き物だ 。
さてこの頃、日本は卑弥呼の時代が終わり、せっせと古墳をつくっていた。中国のこの後の帝国が隋、唐となり、日本からは聖徳太子の中国皇帝に対する手紙や遣隋使や遣唐使の時代に入る。それも前号で紹介した写真1の仏像から数百年も後のことだ。私も、京都、奈良が好きで時々行くが、今までは仏像を見ると、我が国の仏教のスタートやその源流だけしか意識がなかったが、中国の仏像を知るにつれて、日本のはるか以前に中国の歴史があり、それも日本より数百年も前のことだということが、否応なく頭をよぎるようになった。
いずれにしろ、骨董の楽しみは、例えばこの仏像のように、現代より千年をさかのぼって、当時の文化、ものづくりの人々にかなり接近でき、親しみを覚えられることだ。
追記
ここに書いた隠者の生活という風流の境地は、中国、日本に受け継がれ、この時代の後で、有名なのは唐時代の寒山拾得だ。
寒山と拾得は、中国天台山に住み、清貧の生活を送りながら独自の詩の世界を展開した。一説に、それらの詩を、山中の岩に書いていたと言われる。日本の良寛も憧れた寒山のことだ。それが中国、日本美術の画題としてよく描かれるようになる。
それが写真6だ。
10/12/24
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