前回紹介した元寇の防塁(げんこうのぼうるい)について、もう少し紹介したい。実は、この歴史上の出来事は日本にとって、とても大きな事件だったのだ。普通なら日本は必ず元に占領されていて、国民の大半は奴隷のような悲惨な状態になっていたし、現在の私たちにも元の血が色濃く残されていたに違いないからだ(実際、元は穀物まで船に積んできていた)。
さて、まず写真1を見てもらおう(写真はクリックしてご覧ください。拡大すると細部までよくわかります)。
この馬に乗っている先頭の武者は竹崎五郎季長(すえなが)という武者である。彼が絵師に描かせ、熊本の彼の領地の神社に奉納されたものが現在、宮内庁に残っていて、唯一当時の様子がわかる資料となっている(蒙古襲来絵詞といわれている)。
私も2009年、上野の東京博物館で皇室の秘宝展があった時、これだけは見たいと思って出かけた。約800年経っているとはいえ、墨と顔料で描かれているだけに、はっきりと当時の雰囲気をうかがえるものだった。
この竹崎季長については彼のエピソードがこの中に残されているのでそれを紹介しよう。季長の目的は手柄を立て、恩賞をもらうことだった。この時代、日本国のために戦うという意識はなかった。彼は勇敢に戦ったにもかかわらず、恩賞をもらえなかった。それに不満な彼は、遥々熊本から鎌倉まで2ヶ月かけて出かけ、幕府にそのことを訴え、やっと恩賞として熊本県の海東郡の土地(現在の下益城郡小川町)を与えられたのだそうだ。出かける時、彼はこの願いが聞き入れられなかったら坊さんになってしまおうと決心していたという。それほど思いつめていたらしい。というのも親類から、そんな訴えは聞いてもらえないし証人もいないから、と誰も費用を出したり、同情してくれなかったからだと言われている。
弘安の役では、彼は小舟に乗り、元の船に乗り込んで戦ったのだ。この時、なんということか兜を置き忘れてきた。仲間の武士が「それなら若い部下の兜を借りたらどうか」と言ったら、「いや、それで若い部下が戦死したら両親が悲しむ」と言って、自分の膝あてを額につけたと、この絵詞のことば書きの部分に書いてある。実際にその場面の絵では彼が敵の首をかきとっている時、その膝あてが空中を飛んでいる。私もこの場面を見た時は思わず笑ってしまった。いつの時代にもいる、強情で一本気な男だったと思われる。しかし彼のおかげでこのような生の資料が残されたのである。
さて、前々回の宗像大社、今回の元寇防塁をみたら、足をのばして、あるいは前もって、壱岐の島にも行ってみることをお勧めする。
その理由は、魏志倭人伝に紹介されている一支国(いきこく:魏志倭人伝には一大国と間違って書かれている)が今の壱岐の島だからだ。ここには2010年オープンした博物館があり、写真2のような原の辻遺跡も復元されている。また、壱岐は隠れた真珠養殖の島でもある。その一部を写真3と写真4で紹介したい。特に、手のひらにのっている真珠のような立派なものがとれることは業界でも知っている人は少ない。
10/2/26
(写真をクリックすると拡大写真がご覧になれます)
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