今回は、前回紹介した宗像大社(指輪で唯一国宝の指輪を所持)と一緒にみてもらいたい元寇の防塁(げんこうのぼうるい)を紹介したい。まずは写真1を見てもらおう(写真はクリックしてご覧ください。拡大すると細部までよくわかります)。
この絵と元寇という言葉で、歴史の授業で見聞きしたことがあると思い出してもらえるかもしれない。
次に写真2を見て欲しい。この金柵の右側の石垣は、写真1の馬に乗っている武者の後ろで、大勢の武者が座っている石垣を再現したものだ。実物の絵は、石の種類によって色を変えているので、石材の種類もある程度わかるという貴重な資料だ(この絵を実際に見てみると、確かに着彩を変えていた)。
みなさんも知っているように、当時(鎌倉時代、北条時宗の時代)元は2回に渡って攻めてきた。最初は1274年、900隻の船と2万8千人の兵で攻めてきた(このうち300隻は給水船だった)。この時は初めての戦いで、日本は陸地深くまで攻め込まれ、海岸から約10qも離れた大宰府まで攻められてしまった。しかし、どういうわけか元軍は船に戻り、暴風雨に遭って壊滅してしまうのだ。
時宗は、これに懲りて、写真2の防塁を博多湾全体に、高さ2.5m、長さ約20kmに渡って、約半年間で造らせた。大変な工事だったと考えられるが、そのおかげで7年後に2度目の襲来(1281年弘安の役)では、この防塁の中には元の兵を入れなかった。この防塁計画は、とても意味があった。なぜなら元軍を陸地に上げてしまうと、武士の一騎打ちと元の集団戦法とでは全く勝負にならなかったからだ。そして、元の軍船は、またも大暴風雨に見舞われ、壊滅状態となり二度と攻めてくることはなかった。
この出来事はまた、日本にとっては、昭和の時代に不幸な結果をもたらした一つの原因とも、私は思っている。米国との戦いで、負け戦が濃厚になると、日本は神国だから「神風(かみかぜ)が吹く」という全く馬鹿らしい説を広めたのだ。
写真3は、この防塁と海とを写したものだが、正に数十メートルの距離で海に連なっている。その海の写真が写真4だ。
この海に、1,000隻弱の船が並んだありさまを見たら、一体どんな考えが武士の心に浮かんだだろうか。そして、彼らのリーダーである時宗はどう考え、悩んだのだろう。当時、時宗は23歳であったが、もっとも強固策をとった。鎌倉で元の使者をすべて切ってしまったのだ。しかも1回のみではなく数回の使者もである。それまでの元の力は強大で、近辺の国は全て属国となっていた。当然鎌倉幕府の内部でも親和策をとる勢力もかなりあったと思われる(事実、朝廷は元に返書を送ろうとし、時宗に握りつぶされた)。時宗は、現場を一度も見たことがなかったはずだが、彼の決断は結果的に正しかった。
しかし、一歩間違えば日本は歴史上初めて元の属国となり、国民は悲惨な奴隷となっていたはずだ(これはかなり真実性がある。元軍は最終的には14万人の軍を用意し、穀物や農機具も積んでおり日本を占領しようとしていたのだ)。
人気のない海岸で風に吹かれながらこの防塁を見ていると、いろいろな想いが湧いてくる。皆さんにも一度、行ってみることをお勧めする。福岡からJR筑肥線で約15分、下山門(しもやまかど)駅下車、駅からは歩いて10分ほどだが、入り口はマンションの裏庭をつたっていくようなところだ。駅やタクシーの運転手も、マンションの住民も、こんなものがあることを知らない人が多いので、インターネット等でよく調べて行くとよい。
私も下山門駅で降りてすぐタクシーに乗ろうとしたら、運転手さんから「そんなものはない」と言われたのでたじろいだ。幸い年配の別の運転手さんがきちんとした場所を教えてくれたので助かった。写真1の現場は、いくつか残っている防塁のうち、生(いき)の松原という松の多い海岸にあり、きちんとした防塁に造られているので特にお勧めする。
10/1/25
(写真をクリックすると拡大写真がご覧になれます)
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