当時パリにあったガイ・スピッツァーという工房でつくられた。もちろんピカソのOKはとってあり、ピカソ本人のサインもある。当時125枚刷られ、これはその57枚目だ(写真1)。このスタンプを訳してみると、一番上から、ガイ・スピッツァー、パリ8区、油絵の複製、そして大きな字は、パブロ・ピカソ、抱擁、作家サインあり、125枚の限定刷、これはそのうち57枚目である、と書いてある。さて、なぜ私がこの画に着目したかというと、ピカソが19歳という無名時代のものだからだ。バルセロナに行くと、ピカソ美術館がある。ここはピカソの幼少時代から若い時の作品が集めてある。ピカソが生まれて初めて口にした言葉は「エンピツ」だったといわれている。中でも私が唖然としたのは、16歳の時に描かれた『科学と慈愛』という作品だ(写真2)。大きさは197×249cmだ。まさに臨終の人を医者が脈をとり、牧師が見守っている。死んでいく母親は残していく小さい娘を万感の思いで眺めている。16歳といえば、高校一年生くらいだろう。その年齢で人の死を題材にした画を描くとは、なんという大胆な、またすごい力量なのだろう。これ以降、普通の風景や人物を描くのは退屈だったのかもしれない。ピカソの言葉に、「なぜ自然をきれいに描かなくてはならないのか。それなら丸だけ描いている方が全然いい」というのがある。さてこの画を描いた時期以降、ピカソの作品はいわゆる青の時代に入る。この時代の代表的な作品が1901年、二十歳の時の自画像だ(写真3)。これは、パリのピカソ美術館にある。この美術館はピカソのキュビズム時代の作品で有名なのだが、この自画像を見に行くだけでも価値がある。それに建物も昔の貴族の館で、それを見るだけでも気分がいい。
青の時代に入るきっかけは、友人カザジェマスの自殺と言われている。カザジェマスの死は劇的で、失恋の痛手を受け、ピカソが色々と面倒を見るのだが、ピカソのいない間に、友人たちとの夕食会でピストル自殺をしてしまう。その時の作品が写真4だ。こめかみに銃弾の跡がある。さて、この青の時代と並行して、ピカソは道化師たちにも共感を寄せて作品にしている。この時代、弱者に関心を寄せ道化師という社会の片隅の人々を描いている時代でもあった。写真5が私の持っている、この時代の版画だ。1905年の作品だと、ブロッホのカタログレゾネに載っている。1904年に新しい彼女ができ、バラ色の時代といわれる時期に入る。この頃、以前に書いたパリ、モンパルナスの、あだ名が洗濯船(セーヌ川で洗濯を専門にする船があった。その船にアパートの形が似ていたのでそう呼ばれる)といわれるアパートに居を定める。この建物は今壊されてないが写真が残っている(写真6)。今は、写真7の右側のような建物に変わっている。私もこの前に長いこと佇んでいたが、この前を行き来する観光客は山のようにいた。だが、この建物が絵画史上に名を残すものだとは気がつかない。15分間にただ一人、女の人がしげしげとこの建物を眺め、写真を撮っていたくらいだった。
そして、1907年にはピカソの名声を決定づけ、絵画の歴史を塗り替えたといわれる『アヴィニョンの娘たち』(写真8)がここで描かれる。最初にマチスがこの画を見せられた時、「これでピカソも終わりだ」と言ったほどマチスにも理解できなかった。私もこの画はN.Yの近代美術館で何回も見たが、好きだとは未だに思えない。でも美術館のガイドのおばちゃんに、「この館の中で何が一番好きか」と聞いたら、この画だと答えた。「人は違うものだなあ」とつくづく思ったものだ。