【1】
ロダンはほとんど正規の美術教育を 受けていないインテリアの職人だった。貧しく、若いときは非常に苦労をした人だった。劇場装飾の下請け仕事をしていた時に知り合ったのが、実際の妻となるローズだった。その彼女のマスクが写真2だ。めずらしくロダンが描いたものだ。写真3は、フランスのセーヌ県の記念碑コンペのために制作されたものだ。若い駆け出しの彫刻家にとって、このようなコンペは自分を売り出す絶好の機会となっていた。今でもオーストラリアでは公共建築に置く彫刻作品は、ほとんどコンペ形式をとっている。私の友人の巻川君は、それによって無名からオーストラリアでの著名彫刻家となった。日本のオーストラリア大使館に置いてある作品はほとんど彼のものだ。やはり、平等性ということが重んじられるのだろう。日本では公共のコンペというものを、私はあまり聞いたことがない。この像は普仏戦争を記念するコンペだったのだが、残念ながらロダンの作品は採用されなかった。しかしロダンの死の直前、2倍に拡大され、鋳造され、ヴェルダンに設置された。拡大という仕事は当然、職人によってなされ、後になって真正にロダンの作品と呼んでよいか問題を提起した。この考える人も、ロダンが塑像を直接つくったのは76cmの大きさで、今一般に見られている大きな考える人は職人によって拡大され、つくられている。
上野にある西洋美術館の考える人も拡大作とはっきり書いてある。(写真4 拡大してご覧ください)
【2】
35歳の時、イタリアでミケランジェロの彫刻を目の当たりにして衝撃を受け、作品「青銅時代」(写真5)を制作し、彫刻家としてスタートした。しかし、極めて緻密でリアルだったので、実際の人間から型をとったのではないかと疑われた。そこでロダンは新たにもっと大きな人物像をつくり、展示会の審査員を納得させ、これによって一気にロダンの名声は高まった。
【3】
ロダンの弟子といったら、すぐにブールデルの名が出てくる。写真6の弓を引くヘラクレスが代表作で、美術の教科書には必ず出てくるから知っている人は多いと思う。ブールデルは21年間もロダンと共に仕事をし、というより職人として働いた。ロダン作といわれる白大理石の作品は、ほとんどブールデルの手によって彫られた。ロダンが粘土で塑像をつくり、それをブールデルが大理石におきかえたのだ。だから、それが本当にロダンの作品と言えるかどうかは議論になっている。しかし、一時ロダンの工房には50人もの人が働いていて、それは当たり前のことだったのかもしれない。
【4】
愛弟子、カミーユ・クローデル(写真7)との悲恋は映画にもなったほどで、妻ローズ(といっても正式にローズと結婚手続きをとったのはローズ73歳、ロダン77歳の時だった。ローズはその16日後に亡くなり、9ヶ月後にロダンも亡くなった)とカミーユとの間で気持ちが揺れ動き、そのためカミーユは精神病になり、死ぬまで精神病院に入っていた。ロダンから離れて独立しても、ロダンの影響をいわれ、なかなかカミーユ個人の作品として認められなかったことも大きな原因だった。そして、これを読めばどうしても彼女の作品を見たいと思うが、国内では静岡県立美術館に『波』という作品を見ることができる(写真8)。葛飾北斎の『富岳三十六景・神奈川沖浪裏』という有名な作品にヒントを得たと言われている。また、パリのロダン美術館には、ロダンの遺言で、カミーユの作品部屋があり、多くの作品を見ることができる。