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第98号 福島菊次郎という人
福島菊次郎さん。写真1のこの方は私にとって本当に懐かしい人なのです。みなさんの大先輩、つまり本校に在学していた人でもあります。
(※写真は拡大して記事と合わせて読んで下さい。)

現在92才。その福島さんを撮った映画 『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』ができたのです。 私はテレビでそれを知り、すぐに観に行きました。こんな人もいた、いやいるのだとみなさんに知って欲しいのです。
写真1
<写真1>
© 2012『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』製作委員会
彼が成年になった頃は、太平洋戦争も終盤になっていて広島の軍隊に入れられていました。原爆が落とされる数週間前です。
でも幸いなことに、福島さんの軍隊は宮崎に移動しました。宮崎海岸から上陸してくる米軍を迎え撃つため、海岸にたこ壺を掘らされ、背中に爆弾を背負ってその中に潜むのです。人間爆弾で必ず死にますね。米軍上陸の何日も前から、日中は身動きしても怒鳴られ、トイレも自分のたこ壺の横で用を足すというありさまでした。しかも背後には機関銃が据え付けられ逃げる奴は撃つ、というのです。しかしその間に終戦し(私はなぜ敗戦という言葉を使わないのかと思っていますが)茫然自失して山口の自宅に帰ります。そしてカメラ店を始めたのです。
写真1
<写真2>
© 2012『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』製作委員会


写真1
<写真3>
© 2012『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』製作委員会

カメラは小学四年生の時から手にしていました。そんなわけで写真撮影を始めました。最初は、原爆後の風景写真を怖々撮っていたのです。当時はそんなことをしたら、米軍に逮捕されると言われていました。やがて、原爆症の中村杉松さん(写真2)と知り合い、その一家の壮絶な病気との闘いを写真に記録し始めました。中村さんはあまりの苦しさに、太ももをカミソリで切って、その痛みで苦しみを紛らわすほどです(映画ではこの太ももがアップで出てきます-写真3)。これが写真批評家協会の特別賞をとり、写真家として世に知られるようになりました。その後、社会派写真家として、成田闘争、安保運動、自衛隊、原発を撮り続けて、中央公論などの雑誌に載り始めました。これらの仕事の中で私が一番インパクトを受けたのは、『天皇の戦争責任展』です。天皇の責任を問う写真展を、全国数百ヶ所でおこなったのです。こんなに怖い写真展はありません。右翼が怖くて誰もがタブーとしたテーマです。案の定、暴漢に襲われて、殺されそうになりました。

そんな福島さんですが、ある時カメラマン生活に決別して、瀬戸内海の無人島で本当の自給自足生活を一人で始めます。この時期を書いた本が、
『菊次郎と海』(現代人文社刊)で、とても楽しい一冊です。本当に独立自主の正義の人で、何物にも負けないすごい人です。今は山口で一人、静かな生活を送っていらっしゃいます。
私とのつきあいは、福島さんが私の学校の学生になってくれた時からです。もちろん私たちが教えるというより、ジュエリーの先輩として学校に遊びに来てくれていたのが本当ですが、授業料はきちんと払ってくれました。ものすごく器用で、よく昆虫を鋳造してジュエリーをつくっていました。そして、これらの作品の展示会を行って、自分の写真活動の資金にしていました。 しかしアトリエでは、自分がそんなに有名なカメラマンだとはひとことも言わず、私たちもそんなにすごい人だとは知りませんでした。その頃私も自分の人生について、福島さんに相談しました。そのとき、
「君が本当にそうしたいのだったら私も応援してあげるよ」と言ってくれたことを今でも憶えています。福島さんのお嬢さんもジュエリーをつくり始め、鋳造がうまくいかず嘆いているとき、福島さんの返事は「いいぞ、いいぞ」でした。この言葉は私の人生の大きな指針となっています。大きな失敗をしたとき、うまくいかないとき、自分に「いいぞ、いいぞ!」と言うのです。

福島さんの映画『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』がこれから東京で観られる映画館は2ヶ所です。

2012年12月1日〜14日 下高井戸シネマ
2012年12月22日〜2013年1月4日 キネカ大森
配給:ビターズ・エンド

本を読んでみたい方は、 現代人文社『ヒロシマの嘘』と『菊次郎の海』が良いです。
私の書いたことをもっとリアルに感じられます。

12/11/5

(写真をクリックして拡大してみてください。

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