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第88号 法隆寺の百万塔 其の三
前回の制作の話から、今度はこの百万塔(写真1、写真はすべて拡大してご覧ください)がなぜつくられたかの話をしよう。  

其の一で1200年前に称徳天皇がつくることを命じたと書いたが、称徳天皇とは有名な聖武天皇と光明皇后の娘なのである。最初即位したときは、孝謙天皇という名で、もう一度即位して称徳天皇となった。歴史上二度即位した唯一の天皇でもある。

聖武天皇といえば、私たち工芸の世界の人間は、その后の光明皇后と正倉院を思い出す。東大寺の大仏をつくらせたのも聖武天皇だが、その大仏よりもはるかに文化遺産として価値のあるのは正倉院に納められている御物だ。

写真1
<写真1>



聖武天皇が亡くなった後、光明皇后が天皇遺愛の品々を正倉院(写真2、建物を見るだけでもすばらしい。一度見に行くことをお勧めする)に納めた品々だ。なぜ価値があるかといえば、これらの品々はペルシャや中国、唐の時代のいわゆる舶来品が多いのだが、現在では中近東や中国では見つけられないものだからだ。歴史の中の数多くの戦乱の中で、ほとんど失われてしまっていて、残っているのはこの正倉院の物だけという品が多い。また、その工芸的な美しさや技術の高さでも現在再現するのが難しいといわれている。五弦の琵琶(写真3)などはその良い例で、毎年秋に行われる正倉院展は人気が高く、朝から長蛇の列ができる。

いわゆる天平の華といわれる時代なのだが、反面政治的には不安定なもろい時代でもあったのだ。宮廷内は天皇家と貴族の藤原氏との勢力争いであり、政治も仏教しか頼るものがなく、僧が政治に大きく影響した時代とも言える。  
写真1
<写真2>


<写真3>


聖武天皇の死後、力をつけてきたのは藤原仲麻呂であった。聖武天皇の后、光明皇后が叔母にあたることもあって次第に勢力を伸ばし玄ムを九州の太宰府に追ったのも仲麻呂であったし、孝謙天皇の次の淳仁天皇も仲麻呂がたてたようなものだった。ついには、恵美押勝(えみのおしかつ)という名をもらい(多分自分で画策した)その印は天皇印と同じであるということまで許可をもらい、政治を我物とした。それを危ぶんだ孝謙太上天皇(前にも書いたが聖武天皇の娘で天皇となったが淳仁天皇に位を譲り、自分は上皇と同じ立場に就いた。そういう天皇を太上天皇という)が僧、道鏡と結び、仲麻呂を排除しようとし、最後は双方とも武力衝突となった。これを恵美押勝の乱という。歴史の教科書にも出てくる大きな乱だ。孝謙太上天皇(女帝)はもし戦いに負ければ、自分は幽閉されるか殺されてしまうので必死だった。幸い、戦いは孝謙太上天皇の軍が勝ち(この軍司令宮が七十歳の和気の仲麻呂で、日本の軍学の祖といわれ、前に書いた僧玄ムと一緒に遣唐使として唐に渡った留学生だった)、天皇の座は安泰になったのだが、二度とこのような乱が起こらないようにとの念願を込めて、百万個つくられたものがこの百万塔なのだ。一説には、玄ムの没後、勢力を得た道鏡という僧が天皇につくることを勧めたともいわれている。  

<参考文献>
倉院美術館『ザ・ベストコレクション』講談社
正倉院展『六十回のあゆみ』思文閣出版


11/6/30

(写真をクリックして拡大してみてください。)

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