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第103号 ロダンの「考える人」U

この「考える人」、英名Thinkerはロダンの命名によるものでなく、鋳造したアレックス・リュデイエが名づけたと言われている。

 もともと、この彫刻はロダンがパリ市から依頼を受け、装飾美術館に設置される地獄門の頂点を飾る彫刻の予定だった(現オルセー美術館のあるところ)。それが取り止めになった後も、ロダンは個人的につくり続けたのだ。地獄門の名の通り、地獄に堕ちた人々をその門の上から眺めている詩人ダンデを表していると言われている。だから当初は詩人というタイトルだった。この人物のみが独立して鋳造され、世界に広まっている。地獄門そのものは、東京上野の西洋美術館やパリのオルセー美術館に飾られている(写真1)

写真1
<写真1>


ところで、この作品は永く鋳造されず、粘土の原型のままに置かれ、ロダンの生きている間には鋳造されなかった。それが鋳造されるようになったのは、日本人の松方幸次郎の注文がきっかけだった。松方は、1916年以降、三回の渡欧で、いわゆる松方コレクションといわれる美術作品を買い集めた。その中に59点のロダン作品がある。そのコレクションを所蔵しているのが、現在の上野にある西洋美術館だ。松方が鋳造のための前金を払って初めて地獄門はこの世に姿を現したのだ。当時、川崎造船所の社長だった松方は、その資金によりヨーロッパの美術商をもびっくりさせるほどの買いっぷりだった。その数約2000点といわれている。しかも、そのうち300点はロンドンに保管中、火事に遭って消滅している。第二次世界大戦を挟んで、パリにあった松方コレクションは仏政府によって凍結されていた。それを日本政府が、松方コレクションを展示する国立美術館を設立することによりようやく日本に返還されたのだ。その美術館が今ある西洋美術館だ。

 

ロダンの生涯について

 私もこの機会にロダンの生涯について興味を持ち、少々調べてみた。そこでの印象深いことを書いてみよう。

【1】

ロダンはほとんど正規の美術教育を 受けていないインテリアの職人だった。貧しく、若いときは非常に苦労をした人だった。劇場装飾の下請け仕事をしていた時に知り合ったのが、実際の妻となるローズだった。その彼女のマスクが写真2だ。めずらしくロダンが描いたものだ。写真3は、フランスのセーヌ県の記念碑コンペのために制作されたものだ。若い駆け出しの彫刻家にとって、このようなコンペは自分を売り出す絶好の機会となっていた。今でもオーストラリアでは公共建築に置く彫刻作品は、ほとんどコンペ形式をとっている。私の友人の巻川君は、それによって無名からオーストラリアでの著名彫刻家となった。日本のオーストラリア大使館に置いてある作品はほとんど彼のものだ。やはり、平等性ということが重んじられるのだろう。日本では公共のコンペというものを、私はあまり聞いたことがない。この像は普仏戦争を記念するコンペだったのだが、残念ながらロダンの作品は採用されなかった。しかしロダンの死の直前、2倍に拡大され、鋳造され、ヴェルダンに設置された。拡大という仕事は当然、職人によってなされ、後になって真正にロダンの作品と呼んでよいか問題を提起した。この考える人も、ロダンが塑像を直接つくったのは76cmの大きさで、今一般に見られている大きな考える人は職人によって拡大され、つくられている。 上野にある西洋美術館の考える人も拡大作とはっきり書いてある。(写真4 拡大してご覧ください)

【2】

35歳の時、イタリアでミケランジェロの彫刻を目の当たりにして衝撃を受け、作品「青銅時代」(写真5)を制作し、彫刻家としてスタートした。しかし、極めて緻密でリアルだったので、実際の人間から型をとったのではないかと疑われた。そこでロダンは新たにもっと大きな人物像をつくり、展示会の審査員を納得させ、これによって一気にロダンの名声は高まった。

【3】

ロダンの弟子といったら、すぐにブールデルの名が出てくる。写真6の弓を引くヘラクレスが代表作で、美術の教科書には必ず出てくるから知っている人は多いと思う。ブールデルは21年間もロダンと共に仕事をし、というより職人として働いた。ロダン作といわれる白大理石の作品は、ほとんどブールデルの手によって彫られた。ロダンが粘土で塑像をつくり、それをブールデルが大理石におきかえたのだ。だから、それが本当にロダンの作品と言えるかどうかは議論になっている。しかし、一時ロダンの工房には50人もの人が働いていて、それは当たり前のことだったのかもしれない。

【4】

愛弟子、カミーユ・クローデル(写真7)との悲恋は映画にもなったほどで、妻ローズ(といっても正式にローズと結婚手続きをとったのはローズ73歳、ロダン77歳の時だった。ローズはその16日後に亡くなり、9ヶ月後にロダンも亡くなった)とカミーユとの間で気持ちが揺れ動き、そのためカミーユは精神病になり、死ぬまで精神病院に入っていた。ロダンから離れて独立しても、ロダンの影響をいわれ、なかなかカミーユ個人の作品として認められなかったことも大きな原因だった。そして、これを読めばどうしても彼女の作品を見たいと思うが、国内では静岡県立美術館に『波』という作品を見ることができる(写真8)。葛飾北斎の『富岳三十六景・神奈川沖浪裏』という有名な作品にヒントを得たと言われている。また、パリのロダン美術館には、ロダンの遺言で、カミーユの作品部屋があり、多くの作品を見ることができる。


 

写真2
<写真2>


写真3
<写真3>

写真4
<写真4>


写真5
<写真5>



写真6
<写真6>

 

 


写真7
<写真7>

写真8
<写真8>

さて、これを読んだ読者は、ここに登場したほとんどの作品を上野の西洋美術館で見ることができるので、ぜひ訪れて欲しい。そしてパリに行くことがあったら、ロダン国立美術館のすばらしい庭園も訪れて欲しい。最後に、私の一番好きなロダンの作品を紹介したい。写真9がそれだ。高さわずか28cm、しかし写真からはとても大きく感じてしまう。これ以上美しい男性の裸体はないと思わせるようなトルソだ。ロダンはこれを一度、手や首までつけて完成させ、その後それを切り取ったという。ミロのヴィーナスが典型だが、ギリシャ彫刻は体の一部を失って発見されている。それが完璧なまでの美しさを保っていると言ったのはロダンだ。ミロのヴィーナスは、その後腕を色々につくられたが、結局発見された形に戻っている。ロダンはその考えを元にこのトルソをつくっている。

写真9
<写真9>

 


出展:「手の痕跡」国立西洋美術館図録より(写真4、7、8を除く)

14/7/28

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